愛は「空間」なんだって
もともと自分の世界に籠もりがちな内向型人間の私は、競争とか戦いには辟易してしまう性格で、老荘思想の「無為自然」という言葉に何となく惹かれていました。
老荘思想を腰を据えて勉強したことはなかったのですが、ふとしたきっかけで『ラブ、安堵、ピース』という小洒落たタイトルの老子解説本に出会いました。
(副題「超訳『老子道徳経』)
半分ほど読み進めたところで、何かが自分の中でカチリと音を立て火花を散らして繋がったかのような感があったので(まじでそんな感覚)メモとしてここに書き留めておきたいと思います。
以下引用です。
"タオは 、無限に広がるからっぽの空間 。淵のように深い 、万物の存在基盤だ 。 「からっぽ 」の空間だから 、見ることも触れることも出来ないけど 、その空間こそが 「無限の愛 」なのさ 。
なぜ 「からっぽ 」が愛なのかって ?だって 、 「空間 」は 、ありとあらゆる存在をそのまま抱き続けてくれるじゃないか ! 「あの子は入っていいけど 、君は悪い子だから入っちゃダメ 」なんて 、 「空間 」に拒絶されたことはないだろう ?
(中略)
善人だろうと悪人だろうと 、分け隔てなく無条件に受容してくれる 。一切の取引を要求しない 。それが 「愛 」ってもんだろう ?だったら 、 「空間 (からっぽ ) 」は 、まさに愛そのものだ 。"
黒澤一樹『ラブ、安堵、ピース:東洋哲学の原点 超訳『老子道徳経』アウルズ・エージェンシー、2017年4月、第4章
そもそも空間とは何なのか。
宇宙の構成要素です。
時間と双璧をなしています。
私は相対性理論や量子論などの科学を一般向けに解説した本を読むのが好きなのですが、時間も空間も、何やらとてもとても不思議なものらしいのです。
「時間」が不思議なものである、というのは科学者の口からも度々発せられる「タイムトラベルは理論上は可能」という言葉からも察することができます。
(相対性理論によると、未来・現在・過去は同時に存在するものであり、時間は光速で移動することにより伸び縮みするものらしいです。そんな感じのこと言ってた気がする、多分。)
そして「空間」も負けず劣らず、一言では説明不可能な摩訶不思議な存在らしいです。
めちゃくちゃ大きな質量によって歪んで重力波を生み出したりするとか何とか。
ビッグバンは空間の中で起こったのではなく、空間(と時間)そのものが爆発したのだ、というとても素敵な文言を聞いたことがあります。
(どこでかは忘れました、科学誌Newtonだった気がします)
そんな奇妙な「空間」ですが、本書によると老子は「空間こそが無限の愛」だと説いています。
この言葉で私が突如雷に打たれたように思い出したのが臨死体験者のエピソードです。
臨死体験といえば、心肺停止やそれに準ずる状況から奇跡的に生還を果たす際に見る幻みたいなものです。
(ずいぶんオカルトっぽい話ですが、あまりに証言者が多いため医学会も無視できず、1980年代頃から研究が盛んになり、2001年には権威ある医学誌Lancetに臨死体験に関する論文が掲載されています。もっともこれが脳の見せる幻覚に過ぎないのか、本当にあの世が存在するのか、論争は依然として決着していませんが…)
医者が研究としてあらゆる証言をまとめ統計学的に分析したお堅い本から、体験者本人による自己啓発的というかスピリチュアル寄りの本まで、あらゆる臨死体験の本を、私は半年ほど前、貪るように読み漁っていました。
(たぶん就職を前にして相当ナーバスになっていたんだと思います)
そして、多くの臨死体験者が口を揃えて「言葉に言い表せられないくらい深い無条件の愛を感じた」「一切の非難や咎めが存在しない包容を感じた」「ただただひたすら受け入れられてる感じがした」と述べていることを知りました。
この「無限の愛・受容」を人によっては、神、仏などと呼ぶわけですが、
老子は「空間(タオ)」と呼んでいるのか!と驚き混じりに得心しました。
宗教観とも宇宙観とも言える老子の思想はとても深遠です。
私は特定の宗教を固く信仰しているわけではないのですが、自分の心にストンと落ちる哲学を温めておくのは好きです。
老荘思想は、今までに好きになった哲学とも相通じるものがたくさんあります。
(どちらも上澄みを掬う程度にしか勉強していませんが、仏教哲学とも通底する部分がかなりある気がします)
休職中に心を落ち着けるのにぴったりな本でした。
今日はここまで。
手乗りサイズの女の子
こんにちは
美しい裸体を描きたくなった
唐突に、綺麗なおっぱい美しい裸体が描きたいなって思い立って、サモトラケやらミロやらをオマージュした神話的な何かを描いてました。
お絵かきに2年近いブランクがあるのでかなり遅筆です。
おっぱいは30秒で描けるのに衣のシワというかドレープをどう描けばよいものか考えあぐねてました。
物理的に合ってるんでしょうか。
こういうドレープは鉛筆で重ね描きすると実際より上手く見えてしまうトラップがあるので、一旦線画抽出してみます。
線画抽出にはibispaintというアプリを用いました。
お絵かき歴に関しては、なにぶん趣味で授業プリントやノートの端っこに描き散らかしてきただけのアマチュアなので、デジタルの機器について恥ずかしながらほとんど知らないのですが、最近LINEスタンプを作る過程でこのアプリに出会いました。
まだまだ使いこなせてないけど、とにかくすごい。無料なのにすごい。
さて、バランスが少し悪いのは上半身が斜め45度を向いているのに膝の高さが同じだからですね。
しかもかなりのガニ股です。
そしておそらく手が全体の比率に鑑みて小さいという事実もバランスの悪さに寄与してると思います。
私の大好きなカルロ・クリヴェッリ尊師(1430-1495)もマニエリスム様式の先取りかってほどお手手は大きく(そしてほっそり優美に)描いていらっしゃるし、
絵画において手を小さく描いてしまうのは、(頭が大きく見えてしまうから)百害あって一利なしです。
※ただの自論です
カルロ・クリヴェッリ先生の《マグダラのマリア》
画像はWikipediaのものです。
ひとまず問題の箇所を描き直してみました。
お手手は指をそれとなく長くすることで誤魔化します。
そして現実の物理法則をガン無視してドレープを描きました。
線画抽出すると粗が目立ちます。
進捗は30/100くらいです。色塗りもしたいので、まだまだです。
今日はここまで。
ありがとうございました。
インスピレーションを得て絵を描くという営為はあの世とのチャネリングではないかと時々思う
めちゃくちゃ過激なタイトルにしましたが、今回の記事でスピリチュアルな主張は1ミリもありません。笑
今日の進捗です。
色塗りも残っているので、まだまだです。
心療内科に通いつつ、色んな心理療法を模索してるんですが、なんやかんやでお絵かきが私にとっての最上のヒーリングだと気づきました。
描いてると不安も恐怖も何もかも忘れられるし、没頭してまるで異次元の世界に迷い込んだかのように時間も一瞬で過ぎるし、ポエティックな言い方ですが魂を燃やしてるって感じがします。
長いことこのワクワクを抑圧してて、2、3年ぶりくらいに筆を取りましたが、私にとってはいい心理療法です。
今回のこの絵ですが、白鳥の湖のオデット(白鳥)とオディール(黒鳥)を描きました。
実は、白鳥と黒鳥のポージングを入れ替えてみたのですが、その解説につきましては完成してからのお楽しみです。
私は昔10年近くバレエを習っていたのですが、今でも結構なバレエオタクです。
インスタでひたすらバレエダンサーのアカウントをフォローして動画を漁り、熱烈な愛を込めていいねを送ってます。
足の甲が高く、足首が柔らかく、あの硬いトウシューズを履いているとは思えないくらいポワント(爪先立ち)の時の足遣いがしなやかなバレエダンサーが好きです。
おそらく私は足フェチなんだと思います。
解剖学的な限界に挑んだかのような足が、脚が好きです。
敬愛するバレエダンサーはシルヴィ・ギエム、ルシア・ラカッラ、アレッサンドラ・フェリ、スヴェトラーナ・ザハロワ、ヤーナ・サレンコ、アリーナ・コジョカル、アニエス・ルテステュ、オーレリー・デュポン、オクサーナ・スコーリク、タマラ・ロホ、メリッサ・ハミルトン、アナスタシア・コレゴヴァ、アナスタシア・ルキナ…他にも沢山いるんですがここらへんで切り上げます。
バレエというのはオリンピックの種目でもなく、地上波で大々的に放送されるわけでもなく、フィギュアスケートなどと比べてもまさに"知る人ぞ知る"世界ですが、上記で羅列した名前も通には分かるはずです。
バレエは本当に美しいです。
文字通り全身全霊で表す芸術です。
私にとってのインスピレーションの源泉です。
バレエと出会えてよかった。
そしてお絵描きが好きでよかった〜
なぜ詩歌は時を超えてこんなにも胸を打つのか──小倉百人一首・万葉集編──
「詩歌」というものが、私は心震えるほど好きだ。
小倉百人一首。万葉集。中国の漢詩。ヨーロッパのソネット。古代ローマの叙情詩。
詠い手の体はとうの昔に朽ちて土に還り、生前の記憶は永遠の深淵に葬られたとしても、詩歌からほとばしる、情熱、哀しみ、愛、喜び、言葉に込めたその燦然と輝く一瞬は、数百年、数千年を超えて語り継がれ、現代に生きる私たちの心の琴線に直に触れている。
これは果てしなくロマンティックなことだと思う。
昔からありとあらゆる国で「言葉」は力を持つと信じられている。
日本でも「言霊」なんて用語がある。
(散文も素晴らしいけれど)詩歌を通して数百年、数千年を旅する言葉の威力は圧倒的だ。
威力、なんて凡庸な表現ではとても言い表せない。
霊力、魔力に近い神秘的な力すら感じる。
詩歌の言葉には、全身痺れて、息もできなくなるような感動がある。
詩歌の言葉に触れると、まるでその甘美な毒が全身にゆっくり回るかのように、1時間でも2時間でも、じんわりと幸せに浸り、心臓は痛いくらいにきゅっと狭くなる。
詩歌というものは、言葉少なだからこそ、鮮烈に想像力を掻き立てる。
伝えたい想いは海よりも深く山よりも高いけれど、敢えて枝葉末節を削ぎ落とし、心血を注いで選り抜いた美しい言葉たち。
その言葉には限りない重みがあり、今なお生き生きと脈打っている。
私自身、文学への造詣がさして深いわけでもなく、ただのニワカ古典好きに過ぎない面はあるが、今回は小倉百人一首と万葉手話の中から大好きな歌をいくつかピックアップして、心を込めて語ってみたい。
第1章 小倉百人一首
わたの原
八十島(やそしま)かけて
漕ぎいでぬと
人には告げよ
海人(あま)の釣り舟
"広い大海原はるかに、たくさんの島から島を巡って、いま自分が舟を漕ぎ出して行ったということを、都に残してきたあの人にだけは知らせてくれ。この浦の漁夫の釣り舟よ。"
「もう二度と逢うことはないかもしれないけれど、遠くにいるあなたにどうしても伝えたい」
というタイプの和歌が私は死ぬほど好き。
言うまでもないが、現代と違ってこの頃は、政治的・技術的・地理的、あらゆる側面に鑑みて「会いたい人に会いたい時に会う」ということが、限りなく難しい。
そんな時代だからこそ、
せめて「言葉」だけは、海を越え、山を越え、そして時を超え、想い人のもとに届いて欲しいという、身悶えるような情念を感じる。
この歌は遣唐使をめぐる政治的な諍いがもとで流罪となった作者・参議篁(さんぎたかむら)の出立の心境を詠んだものだ。
大阪湾から瀬戸の島々を経て日本海の隠岐へ──。
悲哀、絶望、郷愁、愛。
これらが渾然一体となって一字一字から染み渡る。
惜別の情を詠んだものとしてはこれも素晴らしい。
立ち別れ
いなばの山の
峰に生ふる
まつとし聞かば
いま帰り来む
"見送ってくださるあなたと今ここで別れて任国の因幡(いなば)に行くが、
その稲葉山の峰に生えている松…その「まつ」の名のように、あなたが私の帰りを待っていると聞いたなら、
すぐにも帰ってこよう。"
「まつとし聞かば いま帰り来む」
このたった14字に、深いノスタルジーと愛別離苦の情が滲み出ている。
魂が求めてやまない懐かしい地に吸い寄せられるような、抗いがたい不思議な力すら感じる。
実はこの歌は、「失せ物」(なくし物)が帰ってくるおまじないとしても有名だそうだ。
特に迷い猫が無事に帰ってくるように祈りを込めて短冊に綴り、猫の皿の下に伏せて置くと再会が叶うとかなんとか。
胸がきゅんとするような素敵さ。
お気に入りの恋の歌も紹介したい。
由良(ゆら)のとを
渡る舟人
かぢを絶え
ゆくへも知らぬ
恋の道かな
"由良の瀬戸を漕ぎわたる舟人が、舵を失って波に任せて漂うように、この先どこへ行くのかも知らない。
そんなあてのない不安な私の恋であることよ"
大きな夕陽が穏やかな海の向こうに静かに沈みつつある。
細切れに雲がたなびく空は一面オレンジ色で、水面もまた柔らかく燃えるような色に染め上がっている。
逆光に浮かぶ小さな舟、ぽつんと立つ黒い人影。
そんな情景が思い浮かぶ。
「ゆら」という地名の語感もぞくりと震えるほど美しい。
この繊細な情感に溢れた歌を男性が歌い上げているというところにも、えも言われぬ情緒がある。
小倉百人一首、最後にご紹介したいのはこれ。
君がため
春の野にいでて
若菜つむ
わが衣手に
雪はふりつつ
"あなたのために早春の野に出て若菜を摘んでいる私の袖には、雪がしきりに降り続いている"
これは皇子(のちの光孝天皇)が雪の降る野で若菜を摘み、籠に入れて親しい人に贈った時に添えた歌であると言われている。
「君」は誰を指すかは不明らしいけど、私は皇子の意中の女性だと想像して読むのが好きだ。
「愛しいあなたに似つかわしい、みずみずしい若菜を送ります」
そんな淡い幸福感に浸っている中、袖を見やると、白い粉雪が袖の上に舞っている。
ふっと口元に笑みを浮かべる皇子。
そんなシーンが浮かんだ。
なんというか、清らかで可愛らしくて、とにかく小倉百人一首でいちばんの胸キュン和歌だと思う。
切り取った一瞬の情景が、鮮やかに永遠に生き続けている。
第2章 万葉集
奈良時代前後に編まれた日本最古の歌集、万葉集。
この万葉集は、王侯貴族から下級官吏までありとあらゆる身分の人間が詠んだ珠玉の4500首以上が納められており、
そこから名歌を絞るのも困難を極める。
とりわけ有名な歌の中から、私がなぜか忘れられない何首かを選り抜いてご紹介したい。
いちばん胸に沁みるのがこの歌。
誰そ彼(たそかれ)と
われをな問ひそ
九月(ながつき)の
露に濡れつつ
君待つわれそ
"誰だあれはと、私のことを問うてくださるな
九月の露に濡れつつ、愛しいあなたを待つ私を"
日没後、空一面淡い茜色に染まり上がる時刻。
人の顔の区別のつかない、仄かに薄暗い夕と夜の狭間。
「誰そ彼(誰ですか、あなたは)」。
黄昏(たそがれ)はこの言葉に由来する。
昼は日の光、夜は月の光に頼る時代。
松明、灯篭、燈台などのちっぽけな照明はあれど、おおよそ自然界の明かりと生活を共にした時代ならではの趣き。
作中の「な~そ(な問ひそ)」は禁止の文法。
これがまた一段と美しい響きで、柔らかくたしなめるような味わいがある。
ぼんやりと佇む人影。
そこにいるのは誰?なんてどうか聞かないで。
ずっとあなたを待ってたの。
薄暗がりに目を凝らし、浮かび上がる愛しい面立ち。
紫紺と藍と朱を溶かしたような幻惑的な色の空。
夜の帳がおりはじめる中で、露に濡れたような潤んだ視線を交わすふたり。
そんな一瞬の情景が思い浮かんだ。
しんみりする歌ばかり選んできたけど、心くすぐるような可愛い歌も大好き。
例えばこれ。
恋ひ恋ひて
逢へる時だに
愛しき(うるはしき)
言(こと)尽してよ
長くと思はば
"好きで好きで仕方ないの。逢える時くらいは愛の言葉を尽くして。
この恋を長く続けたいならば"
この歌の作者は大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)とされる。
キュンとさせるような あざとさと可愛さのある女性だったんじゃないだろうか。
ねぇ、お願い、と甘えるような言葉のあとに、もっと構って、と拗ねるような口ぶり。
きらきらときめく乙女心で縁取られた和歌。
いつの時代も恋心はとてもキュート。
最後は愛しさと切なさが混在したこの歌で締めたい。
吾を待つと
君が濡れけむ
あしひきの
山のしづくに
ならましものを
"私を待つといって、あなたが濡れた山の雫(しずく)。愛しいあなたの体に触れたその雫になってしまいたい。"
石川郎女(いしかわのいらつめ)という女性が、恋人である大津皇子に送ったもの。
あなたを濡らした雫になりたい、という言葉に限りない艶っぽさがある。
脳髄まで痺れるような、全身とろけるような甘美な恋。
実はこれは、大津皇子からの歌に対する返歌だ。
大津皇子が彼女に送った歌がどのようなものだったかと言うと、
あしひきの
山のしづくに
妹(いも)待つと
われ立ち濡れぬ
山のしづくに
"君が来るのを待って、夜更けの山の木陰に私は立っていた。でも君がなかなか来てくれないから、木からしたたる雫でこんなにも濡れてしまった。"
想い人を待ち焦がれる切ない響き。
歌中の「妹(いも)」は今でいうsisterという意味ではない。
古くは妻や恋人などの近しい女性を親しみを込めて言う呼び名で、訳すならdarlingとかsweetheartとかhoneyとか。
慈しむような甘い響きがとても素敵だ。
恋に酔いしれるふたりの幸せは長くは続かなかった。
大津皇子がその後まもなく、政変により24歳の若さで命を絶たれたのだ。
つかの間の恋の歓びを噛み締めるような悲劇をはらんでいるからこそ、
今なお私たちの心を鮮烈に掻き立て、いつまでも燦然と輝き続ける。
初めまして
こんにちは。
フローレンスと申します。
ブログというものを、人生で初めて書きます。
ちょっとどきどきします。
1995年生まれの社会人1年目です。
憧れの業界で日々邁進中…と言いたいところですが、最近、自律神経をやってしまいまして休職中です。
文章を書いたり、絵を載せたり、自己表現することをきっかけに活路を開けたらなぁと思い、ブログを始めました。
混血児で目に緑の色素が混じっています。
光の当たり方によっては金色にも見えます。
魔女の子みたい、と言われたことがあります。
人生で最高の褒め言葉です。
無類の本好き…とまではいきませんが、割と活字中毒な方です。
人類学、宇宙科学、歴史学あたりの本を読むのが好きです。
もちろん小説も読みます。
たまに万葉集を貪ります。
子どもには万葉集の美しい和歌にちなむ名前をつけてあげたいです。
絵はそこそこ得意です。
でも色塗りは全然です。
(まともに色塗りしたことがありません。)
アナログ派です。
(デジタルで描いたことがありません。)
アイコンは私が描いたイギリスの女優さんフェリシティ・ジョーンズです。
彼女の顔は究極の造形美だと思っています。
建築オタクです。
ヨーロッパの旧市街マニアです。
毎日のようにGoogleマップのストリートビューで、旧市街バーチャル散歩をしています。
(本当に素晴らしい時代になりました。グーグル神ありがとう)
ガイドブックに載らないような、やたらマニアックな街を知ってます。
もしもタイムスリップできるなら、17世紀のロンドンと、大改造前のパリの街並みを見に行きます。
歴史的な家屋が軒を連ねる家並みで無機質な現代ビルを見つけると、ショックのあまり取り乱します。
学生時代は京都で過ごしました。
超ローコストな京都の楽しみ方、またご紹介したいと思います。
授業がない日に友達の家に泊まって、すっぴんジャージという起き抜けの格好のまま、出町柳から鞍馬山に向かってひたすら歩いたことがあります。
途中で馬小屋を見つけました。
筋骨隆々で艶やかな毛並みに、香ばしい馬糞の香りを纏った黒馬でした。
結局、鞍馬山にはたどり着けず、奇跡的に見つけた自販機でポカリを買って引き返した記憶があります。
ちょっと森見登美彦の小説っぽい楽しい思い出です。
唯物論者だったはすが、最近 引き寄せの法則に惹かれつつあります。
未来に何かしらの希望を持てることは、人生において大事なことだとつくづく思います。
自己紹介は以上です。
気の向くままに、徒然なるままに更新していきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。