ふろーれんす草子

人生は壮大なごっこ遊び

なぜ詩歌は時を超えてこんなにも胸を打つのか──小倉百人一首・万葉集編──

「詩歌」というものが、私は心震えるほど好きだ。
小倉百人一首万葉集。中国の漢詩。ヨーロッパのソネット古代ローマの叙情詩。

詠い手の体はとうの昔に朽ちて土に還り、生前の記憶は永遠の深淵に葬られたとしても、詩歌からほとばしる、情熱、哀しみ、愛、喜び、言葉に込めたその燦然と輝く一瞬は、数百年、数千年を超えて語り継がれ、現代に生きる私たちの心の琴線に直に触れている。
これは果てしなくロマンティックなことだと思う。


昔からありとあらゆる国で「言葉」は力を持つと信じられている。
日本でも「言霊」なんて用語がある。
(散文も素晴らしいけれど)詩歌を通して数百年、数千年を旅する言葉の威力は圧倒的だ。
威力、なんて凡庸な表現ではとても言い表せない。
霊力、魔力に近い神秘的な力すら感じる。
詩歌の言葉には、全身痺れて、息もできなくなるような感動がある。
詩歌の言葉に触れると、まるでその甘美な毒が全身にゆっくり回るかのように、1時間でも2時間でも、じんわりと幸せに浸り、心臓は痛いくらいにきゅっと狭くなる。


詩歌というものは、言葉少なだからこそ、鮮烈に想像力を掻き立てる。
伝えたい想いは海よりも深く山よりも高いけれど、敢えて枝葉末節を削ぎ落とし、心血を注いで選り抜いた美しい言葉たち。
その言葉には限りない重みがあり、今なお生き生きと脈打っている。


私自身、文学への造詣がさして深いわけでもなく、ただのニワカ古典好きに過ぎない面はあるが、今回は小倉百人一首と万葉手話の中から大好きな歌をいくつかピックアップして、心を込めて語ってみたい。


第1章  小倉百人一首


わたの原
十島(やそしま)かけて
漕ぎいでぬと
人には告げよ
海人(あま)の釣り舟


"広い大海原はるかに、たくさんの島から島を巡って、いま自分が舟を漕ぎ出して行ったということを、都に残してきたあの人にだけは知らせてくれ。この浦の漁夫の釣り舟よ。"


「もう二度と逢うことはないかもしれないけれど、遠くにいるあなたにどうしても伝えたい」
というタイプの和歌が私は死ぬほど好き。

言うまでもないが、現代と違ってこの頃は、政治的・技術的・地理的、あらゆる側面に鑑みて「会いたい人に会いたい時に会う」ということが、限りなく難しい。

そんな時代だからこそ、
せめて「言葉」だけは、海を越え、山を越え、そして時を超え、想い人のもとに届いて欲しいという、身悶えるような情念を感じる。


この歌は遣唐使をめぐる政治的な諍いがもとで流罪となった作者・参議篁(さんぎたかむら)の出立の心境を詠んだものだ。
大阪湾から瀬戸の島々を経て日本海隠岐へ──。
悲哀、絶望、郷愁、愛。
これらが渾然一体となって一字一字から染み渡る。



惜別の情を詠んだものとしてはこれも素晴らしい。


立ち別れ
いなばの山の
峰に生ふる
まつとし聞かば
いま帰り来む

"見送ってくださるあなたと今ここで別れて任国の因幡(いなば)に行くが、
その稲葉山の峰に生えている松…その「まつ」の名のように、あなたが私の帰りを待っていると聞いたなら、
すぐにも帰ってこよう。"

「まつとし聞かば いま帰り来む」
このたった14字に、深いノスタルジー愛別離苦の情が滲み出ている。
魂が求めてやまない懐かしい地に吸い寄せられるような、抗いがたい不思議な力すら感じる。

実はこの歌は、「失せ物」(なくし物)が帰ってくるおまじないとしても有名だそうだ。
特に迷い猫が無事に帰ってくるように祈りを込めて短冊に綴り、猫の皿の下に伏せて置くと再会が叶うとかなんとか。
胸がきゅんとするような素敵さ。


お気に入りの恋の歌も紹介したい。


由良(ゆら)のとを
渡る舟人
かぢを絶え
ゆくへも知らぬ
恋の道かな

"由良の瀬戸を漕ぎわたる舟人が、舵を失って波に任せて漂うように、この先どこへ行くのかも知らない。
そんなあてのない不安な私の恋であることよ"


大きな夕陽が穏やかな海の向こうに静かに沈みつつある。
細切れに雲がたなびく空は一面オレンジ色で、水面もまた柔らかく燃えるような色に染め上がっている。
逆光に浮かぶ小さな舟、ぽつんと立つ黒い人影。
そんな情景が思い浮かぶ。
「ゆら」という地名の語感もぞくりと震えるほど美しい。
この繊細な情感に溢れた歌を男性が歌い上げているというところにも、えも言われぬ情緒がある。


小倉百人一首、最後にご紹介したいのはこれ。

君がため
春の野にいでて
若菜つむ
わが衣手に
雪はふりつつ


"あなたのために早春の野に出て若菜を摘んでいる私の袖には、雪がしきりに降り続いている"


これは皇子(のちの光孝天皇)が雪の降る野で若菜を摘み、籠に入れて親しい人に贈った時に添えた歌であると言われている。

「君」は誰を指すかは不明らしいけど、私は皇子の意中の女性だと想像して読むのが好きだ。

「愛しいあなたに似つかわしい、みずみずしい若菜を送ります」
そんな淡い幸福感に浸っている中、袖を見やると、白い粉雪が袖の上に舞っている。
ふっと口元に笑みを浮かべる皇子。
そんなシーンが浮かんだ。

なんというか、清らかで可愛らしくて、とにかく小倉百人一首でいちばんの胸キュン和歌だと思う。

切り取った一瞬の情景が、鮮やかに永遠に生き続けている。



第2章  万葉集

奈良時代前後に編まれた日本最古の歌集、万葉集

この万葉集は、王侯貴族から下級官吏までありとあらゆる身分の人間が詠んだ珠玉の4500首以上が納められており、
そこから名歌を絞るのも困難を極める。

とりわけ有名な歌の中から、私がなぜか忘れられない何首かを選り抜いてご紹介したい。


いちばん胸に沁みるのがこの歌。


誰そ彼(たそかれ)と
われをな問ひそ
九月(ながつき)の
露に濡れつつ
君待つわれそ


"誰だあれはと、私のことを問うてくださるな
九月の露に濡れつつ、愛しいあなたを待つ私を"


日没後、空一面淡い茜色に染まり上がる時刻。
人の顔の区別のつかない、仄かに薄暗い夕と夜の狭間。
「誰そ彼(誰ですか、あなたは)」。
黄昏(たそがれ)はこの言葉に由来する。

昼は日の光、夜は月の光に頼る時代。
松明、灯篭、燈台などのちっぽけな照明はあれど、おおよそ自然界の明かりと生活を共にした時代ならではの趣き。

作中の「な~そ(な問ひそ)」は禁止の文法。
これがまた一段と美しい響きで、柔らかくたしなめるような味わいがある。

ぼんやりと佇む人影。
そこにいるのは誰?なんてどうか聞かないで。
ずっとあなたを待ってたの。
薄暗がりに目を凝らし、浮かび上がる愛しい面立ち。
紫紺と藍と朱を溶かしたような幻惑的な色の空。
夜の帳がおりはじめる中で、露に濡れたような潤んだ視線を交わすふたり。
そんな一瞬の情景が思い浮かんだ。


しんみりする歌ばかり選んできたけど、心くすぐるような可愛い歌も大好き。
例えばこれ。


恋ひ恋ひて
逢へる時だに
愛しき(うるはしき)
言(こと)尽してよ
長くと思はば

"好きで好きで仕方ないの。逢える時くらいは愛の言葉を尽くして。
この恋を長く続けたいならば"


この歌の作者は大伴坂上郎女(おほとものさかのうへのいらつめ)とされる。
キュンとさせるような あざとさと可愛さのある女性だったんじゃないだろうか。
ねぇ、お願い、と甘えるような言葉のあとに、もっと構って、と拗ねるような口ぶり。
きらきらときめく乙女心で縁取られた和歌。
いつの時代も恋心はとてもキュート。


最後は愛しさと切なさが混在したこの歌で締めたい。


吾を待つと
君が濡れけむ
あしひきの
山のしづくに
ならましものを


"私を待つといって、あなたが濡れた山の雫(しずく)。愛しいあなたの体に触れたその雫になってしまいたい。"

石川郎女(いしかわのいらつめ)という女性が、恋人である大津皇子に送ったもの。
あなたを濡らした雫になりたい、という言葉に限りない艶っぽさがある。
脳髄まで痺れるような、全身とろけるような甘美な恋。

実はこれは、大津皇子からの歌に対する返歌だ。
大津皇子が彼女に送った歌がどのようなものだったかと言うと、


あしひきの
山のしづくに
妹(いも)待つと
われ立ち濡れぬ
山のしづくに

"君が来るのを待って、夜更けの山の木陰に私は立っていた。でも君がなかなか来てくれないから、木からしたたる雫でこんなにも濡れてしまった。"


想い人を待ち焦がれる切ない響き。
歌中の「妹(いも)」は今でいうsisterという意味ではない。
古くは妻や恋人などの近しい女性を親しみを込めて言う呼び名で、訳すならdarlingとかsweetheartとかhoneyとか。
慈しむような甘い響きがとても素敵だ。


恋に酔いしれるふたりの幸せは長くは続かなかった。
大津皇子がその後まもなく、政変により24歳の若さで命を絶たれたのだ。


つかの間の恋の歓びを噛み締めるような悲劇をはらんでいるからこそ、
今なお私たちの心を鮮烈に掻き立て、いつまでも燦然と輝き続ける。